古代ギリシャ世界への旅 2005 (copyright Akihiko Matsui)

 

1日目

前日は予想外に作業が長引いて帰宅が9時。それから慌てて、荷造り。翌朝もばたばたと荷造りの続きをし、草に水をやって朝9時すぎに出発。忘れ物がありそうな予感がしていたらやっぱり忘れた(爪切りとトレパン)。トルコ航空でイスタンブールへ。機体はエアバス(機種は忘れた)で、座席が2−4−2だったので少し楽(ジャンボの3−4−3は疲れる。サッカーのフォーメーションじゃあるまいし!)。トルコ航空の飯は結構美味しい。

イスタンブールのアタテュルク空港はきれいなのでびっくり。お金を換えると、事前の下調べが悪すぎたのだが、驚いたことに「百万」がとれている。つまり、今年になってデノミをして、百万トルコリラ(TL)が、1新トルコリラ(YTL)になったというわけ。20YTLを払って、同じような大きさの百万TL札のおつりをもらう。

トルコでは近年ずっとインフレが100%を超えていて、遺跡の入場料も半年毎に書き換える始末。EU加盟を視野に入れているトルコはなんとしてもこのインフレを退治したいところなのである。インフレは貨幣の価値が減っていく現象だから、貨幣の価値が減らない工夫が必要。もちろん、手っ取り早いのは通貨量(の増加率)を減らして貨幣価値を高めること。

しかし、みんながインフレを予想しているときにいきなり通貨供給量を減らせば、お金が充分に行き渡らなくなって経済は混乱する。悪くすれば恐慌になる。お金が予想より少なくなれば当然買い控えなどが出てくるからだ。そこで、まず重要になってくるのが、人々のインフレ予想を変えること。しかし、政府がいくら予想を変えてくださーい、と宣伝しても政府を信用していない民間の人々はそう簡単に予想は変えない。(2004年のノーベル賞はこの辺りの研究で有名な論文を書いたキッドランド=プレスコットでしたね)もうお酒飲みませーん、と二日酔いのたびに言う酔っぱらいが信じてもらえないみたいなものだろうか。そこで、人々の予想をインフレ100%からたとえば数%に落とす有効な手だてとして昔から使われてきたのがデノミネーションというわけだ。酔っぱらいは何をしても信じてもらえないが。

このデノミネーション。古くは元王朝が一度行っているくらい歴史のあるもの。幸い、デノミネーションをやった後しばらくは物価が(少なくとも以前より)安定するケースが多く、政府の決意とアナウンスメント効果によって、人々の予想がシフトし、恐慌を招かずにインフレの鎮静化ができるというわけだ。

あ、そうそう、今回は遺跡巡りの旅だった。イスタンブールで感心する間もなく、国内便でイズミール(スミルナ)に飛ぶ。日本からのツアーの人たちも一緒。機種を小さいものに変更したらしく、かれらの一部(半分以上の人)のボーディングパスの席がない。空いている席に詰めこんでイズミールへ。今回は準備に時間をかけられなかった分、お金をかけた。代理店にアレンジをお願いしておいた迎えの車に乗り、80km離れた遺跡巡りの基点クシャダシへ向かう。宿、午前1時着。ほぼすぐ寝る。

 

2日目

現地ガイドが8時に迎えにくる。ミニバンに客はわれわれだけというプライベートツアーで、プリエネ、ミレトス、ディディマに。ガイドの名前はギョクハンくん、31歳。9.11の後、イスタンブールでもテロがあったこともあり、アメリカ人のツアー客がぐっと減り、ガイドの仕事にはかなり影響が出ているようだ。

トルコないし小アジアは古代から様々な民族が侵入してきた文明の交差点、というより文明の掃き溜め。いわゆるトルコ民族は中央アジアの遊牧民、突厥が移住してきてイスラム化したもので、当然アラビアやペルシャなどとは民族的にも言語的にも異なる。むしろ、トルコ語はウラル=アルタイ語族なので、語順などは日本語に近い。旅の最後のツアーで一緒になったイスラエル人がトルコは典型的なイスラム国家だと言っていたが、かなり違う印象を持った(もっともかれの挙げた理由は、ビーチに水着姿の女性がいない、というものだった。確かに重要な分け方ではある)。

道路沿いに綿畑が広がる。予想以上に緑が多い。沖積平野だが、古代(以下、紀元前の数世紀を指す)にはエーゲ海の一部だったらしい。途中、トルコの旗があまりに多いので、連れが訊ねると、今日は子供の日兼建国記念日らしい。2日後もかわらなかったから、いつも国旗をぶらさげているのかもしれない。

と、ごちゃごちゃ話しているうちにプリエネに着く。遺跡自体はアクロポリスの断崖の下に建つ起伏のある小都市。350BCに創建。それ以前の歴史にも登場するが、位置は不明らしい。滑り止めのために小さな無数の穴や溝が掘られた石畳を登っていく。

神殿は大理石、アゴラなどはもう少し安価な石で造られていたようで、風化の程度がかなり異なっている。配水管などの工夫もよくなされている。神殿の柱に使う大理石はだるま落しのように見えるが、ちゃんと溝が掘ってあり、溶かした鉄を流しこんでつなげていたらしい。溶かすほうは違うが鉄筋コンクリートも同様の発想。こんな小さな町にも640人収容の議事堂と5000人は収容できたという劇場がある。劇場は民会にも使われていたとの可能性が示唆されている。中心の神殿はアテナを祀ったもの。アテナイとのつながりを思わせる。アテナ神殿を観ているとき雨が降ってくる。通り雨らしく10分ほどで止み、抜けるような青空となる。頭上にそそり立つアクロポリスと眼下に広がる綿と小麦の畑がまぶしい。

  

プリエネを後にして、ミレトスに向かう。プリエネは山間の町という趣きだったが、こちらは平野の中の町といった佇まい。もっとも、古代にはエーゲ海に面していたとのこと。劇場はここにもあるが、他の場所と異なり、地形の利用が見られない。ここは哲学の祖とも言われるタレスの故郷。しかし、今回の眼目は、『イルカの島』に出てくる実在の登場人物アスパシア。ミレトスは彼女の故郷でもある。このアスパシアという女性は、古代アテナイの黄金時代であり、ペリクレス時代の立役者であるペリクレスその人のメイトである。彼女のことを「妾」と記し、かれとの間の子を「私生児」と記す解説書もあるが、違和感がなくもない。ペリクレスが正妻と別れていて、アスパシアとその子は「市民」になれなかった、ということをそのまま現代に当てはめれば、たとえば日本人と結婚した東南アジア出身で日本国籍をとっていない女性のことを妾と呼び、その子を私生児と呼ぶようなものか。ただ、古代アテナイでは、「市民」と「非市民」との間に権利、義務の点で今よりはるかに隔たりがあったようで、それを現代の感覚に当てはめて、「妾」、「私生児」と呼んでいるのであろう。これらの表現を現代において使用すること自体妙な気がするが、それを過去の異なる状況に当てはめるとさらに違和感が生れる。

 

彼女は政治感覚と弁論術に優れた人物であったようで、ペリクレスの有名な葬送演説も彼女が作成したらしい。ソクラテスに弁論を教授した、という話もある。売春宿の経営で生計を立てていたとの記述もあるが、政敵による作り事である可能性も否定できない。また、さまざまな喜劇の揶揄の対象になるくらいプレゼンスが高かった。トロイア戦争の発端となった美女ヘレネのパリスによる誘惑の話は有名だが、これをもじって、ペロポネソス戦争の発端が、アスパシアの遊女をメガラの人間が連れていってしまったことにある、というアリストファネスの喜劇『アカルナイの人々』もある。

ギョクハンはアスパシアについてはまったく何も知らない。参考文献でも教えてあげようかと思ったが嫌味ったらしいのでやめておく。ここには参考までに書いておこう。

 

Madeleine M. Henry, "Prisoner of history : Aspasia of Miletus and her biographical tradition," New York ; Oxford : Oxford University Press , 1995.

 

ぼくらがあまりにだらだらしているので、ギョクハンにせきたてられるようにして、昼飯へ。2時ごろにようやく昼飯にありつく。といってもぼくらのせいだが。野菜がおいしい。午後、ディディマの神殿を観るが、『イルカの島』には直接関係ないし、少し長くなってきたので省略。明日はエフェソスへ。

  

3日目

朝5時。まだ暗い中、コーランの放送で目を覚ます。午前中、エフェソスの遺跡に行く。イルカの島とは直接関係はないが、みごとな遺跡が発掘されていて、見ごたえあり。ただし、観光客も多い。「目抜き通り」には邸宅や泉などが続く。発掘された家の中は部屋の壁の色がきちんと残っているものもある。6畳間や8畳間くらいの部屋が多い。中には、大理石の円柱に支えられた数十畳ありそうなホールもある。床はタイル張りだ。

圧巻はセルサスの図書館。蔵書20万巻(巻物)だったというから当時としては相当なものだ。2階建ての図書館の入口には4体の女神像があり、APETH(アレーテ), ΣOΦIA(ソフィア),EΠIΣTHMH(エピステーメ),ENNOIA(エノイア)とある。それぞれ徳、叡智、認識、思慮かな。ただし、ここにあるのは複製で実物はオーストリアのエフェソス博物館にあるという。そういえば、ウィーンにトルコのほうから持ってきた遺跡をたくさん飾ってあった博物館があったな、と思い出して苦笑。19世紀に発掘された彫像はほとんどが西欧に持っていかれてしまい、第二次大戦前に発掘されたものはイスタンブールの博物館へ行き、地元にあるのは大戦後に見つかったものだけらしい。

 

エフェソス博物館では、卵やら動物やらがたくさん身体からぶらさがったアルテミスの像を見る。元々はキベーレなどと言ってヒッタイトのころから豊穣の女神だったそうだ。それがギリシャのアルテミス信仰と結びついたというわけ。ギリシャ神話における豊穣の女神デーメテールではなく、処女神アルテミスを豊穣の神と結びつけた理由はわからない。 

午後は早めに宿に戻って午睡。ふと窓から外を見ると、サッカーをやっている。高校生くらいだろうか。ついつい観てしまう。白vs青。前半は白のほうが圧倒的に押していたが、後半になって、少しずつ青もカウンターをしかけはじめる。白は再三スルーパスを通す(センターバックの対応悪し。スルーパスは出てから反応していたのでは手遅れなのだよ)がフィニッシュが甘く、チャンスをことごとく逃す。後半中ごろで青がPKを得て先制。そのまま試合終了。これだからサッカーはわからない。

レストランでトルコリラでなく、ユーロで払ってよいか、と訊くと"Money is money"との答え。しかもレートが空港とほぼ同じ、ホテルでの交換レートよりもよいではないか(ホテルでのレートはかなり悪かったが)。前日にはドルも使えた。トルコリラが安定してもこの状況は続くだろうか。一度人々が受け取りだしたら特別な理由がない限り、受け取られつづけるという慣性があるので、ドルもユーロも流通し続けると思うが、どうだろうか。面白い社会実験である。

明日はトルコを離れ、ギリシャに向かう。

 

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